運動音痴考 再び
オリンピックイヤーである。
ずいぶん以前のやはりオリンピックが開催された年に、HPのスタッフコラムで「運動音痴考」という文章を書いた。
究極の運動音痴…って今はあまり言わないな。今ふうの言い方だと、身体能力の著しく劣った…は表現としてちょっとマズそうだ…身体能力が究極に高くない私と、オリンピックパラリンピック(長いので以下オリパラと言いたい)の選手の方たちとの間に流れる深い深い、絶対に越えられない深い河はどこから流れてくるんだろう、という素朴で切実な疑問から始まる、「考」というより愚痴、嘆きのような内容だった。
またオリパラの年が巡って来たが、疑問は解けない。
もちろんオリパラの選手だって、持って生まれたものだけで選手になったわけではないことはようく分かっている。私などには想像もつかないような厳しい練習、鍛錬、努力を重ねてきたうえであの場にいるのだ。
でも。
あの人たちと私とでは土台、スタート地点が違うというのもまた事実である。
オリパラから急に小学校の体育レベルの話になって恐縮だが、「逆上がり」を思う。
あれ、はしっこい子だったら幼稚園ぐらいでひょいっとできちゃうだろう。昔むかしの話だが、私は4年生になってもできなかった。さすがに恥ずかしくて、2カ月ぐらい早朝特訓をして、ようやく、ようやくできるようになった。しかしその頃友だちは、足をそろえてキレイにカッコ良く速く回るとか連続何回転とか手が届かないくらい高い鉄棒に挑戦するとかしていたのだ。私は2カ月特訓してやっとの思いでみんなのスタート地点にたどり着いたが、それより先にはもう進めない。
それにしても最近は『1週間でできるさかあがり』とかそのたぐいの本やDVDがたくさんある。逆上がりって子どもの運動能力のひとつの指標的なものなのだろうか。
さて、中学の体育の女性教師は学校を出たてで、その学校時代は私が最も苦手な分野である器械体操の選手だったという、私には天敵のような人だった。若いので友だちのように親しみやすく特に女子に人気があり、私も嫌いではなかったが、天敵は天敵である。
今思うに、失礼ながらあの先生は、こんな簡単なことがなぜコイツにはできないのかと本気で分からなかったんじゃないか。自分も周囲の人間も身体能力エリートという人生を過ごしてきて、生徒を教えた経験も少ないのだから、当然かもしれない。未だに覚えているのは、鉄棒の授業で(また鉄棒だ。よほど因縁があるとみえる)出席簿を小脇にはさんだ格好のまま結構な高さの鉄棒をひょいと飛び越えてみせて、「こんなふうにやってみて」と言ったことである。「やってみて」って。「こんなふうに」って、あなた。お手本を見ただけで「そうか、そんなふうにやればいいのね」ってできちゃうなら誰も苦労はしないのよ。
だからと言って、できない生徒を馬鹿にするような言を吐いたり、無茶ぶりで叱ったりしなかったことには感謝しているけれど。運動が苦手な人間って、中学生高校生の時にはそのことにものすごいコンプレックスを持っていて(もちろん体育というものがあるからだ)、そのため往々にしてひがみっぽいのだ。
ひがみっぽいと言えば。
あれから何十年も経ち、現在私は図書館に勤めている。これは完全に私の思い込みで何の根拠もないことなのだが、司書になるような人は、さすがに私ほどではなくても運動の得意でない人たちなのだろうと思っていた。ところが同僚に聞いてみると、学生時代テニスをやっていた、バスケをやっていた、陸上だ、バドミントンだ、ダンスだ、とまあみなさん華やかなのだ。…………なんだか非常に裏切られた気分である。
…また「考」ではなく、単なる思い出ばなしと愚痴の繰り返しになってしまった。で、結局何が言いたいのかというと、オリンピックパラリンピックを楽しみにしてるよー、自分にはとても手の届かない高みに行った方たちの活躍を応援してるよー、である(取って付けたようだけれども)。私がこの先スポーツ全般を得意になることはありえないが、観戦と応援は好きなのだからそっちは得意になろう。